第十三話
自分の足で走ってみると思ったより平らに感じる道を走り終え、タイラーとコルトが文月家の戸を開いたのは朝の七時の事だった。こちらに着いてから一週間。もう六度走ったジョギングコースで、その道のりはだいたい10km。
「前はもっと速く走れたんだけどなぁ」
タイラーは殆ど汗をかいておらず、まるでちょっと家の周りを散歩して来たかのような、涼しい表情で食卓に着いた。その後ろからシャワーの後のように汗でびしょ濡れになったコルトが付いて来る。といっても、その表情はタイラー程ではないが余裕を見せていた。
「俺達とは鍛え方が違うようだな」
タオルで頭を拭きながらコルトも食卓に着く。湿った上着を椅子にかけ、そこに置かれていた新聞を手に取る。尤も、日本語で書かれた新聞など読めはしなかったのだが。
「ああ、外国語もな」
そう言ってコルトの手から新聞を取り、タイラーは代わりに幼稚園児向けの絵本を渡した。平仮名だけで書かれたものだ。それも読めないコルトは放りだし、大人しく食事が出て来るのを待つ事にした。と、間もなく文月とアニタが大きな鍋を持って来た。
「これで足りますかね?」
文月は二人の前に鍋を二つ並べ、アニタがどんぶりのような大きさの器に、おたまじゃくしでその鍋の中身を注いだ。油揚げが一面に浮かんでいる味噌汁である。
「どうぞ!」
そう言って器を掴み、二人の前に置く。すぐにタイラーは箸で、コルトはフォークでそれを口にかき込んだ。
「うまい」
「ああ」
それだけ言って一分足らずで器を空にしてしまう。文月が炊き立てのご飯をこれも大きな器に盛って、卵と一緒に持ってきた。アニタはせかせかと二人のお代りを注いで、自分達の分もだいぶ小さい器に注いだ。
「じつに美味い。すごく美味いよ」
そう言って食べ続ける二人の前に、文月とアニタが座った。
「そればっかりですね、二人とも」
文月は味噌汁を啜って言った。タイラー達ほど油揚げを入れていない。アニタもそれほどは入れなかった。油揚げで覆い尽くされたような味噌汁は運動後でもないと少々苦しいものだ。
「他に何か無いの?美味しい以外に」
アニタは後ろで括った髪を解きながら聞いた。タイラーが空になった器を差し出して応える。
「おかわり」
「もう!」
一週間も経てば、慣れない気候にもある程度馴染める。ベトナムの熱帯雨林での生活を考えれば、極楽と言っても良い土地だ。食中毒やマラリアの心配も無ければ、寝ている間に蟻に噛まれる心配もしなくていい。目が覚めるとすぐ近くまで敵が来ていたり、手榴弾の爆発する音で起こされる事も無い。
「まったく、走っても体が鈍ってしまいそうだ」
食事を済ませた後、コルトは文月家の庭で休みながら呟いた。草木の匂いと、近くを流れる川の匂い。畳の匂い、木の匂い。慣れない香りもあったが、少なくとも硝煙やジェット燃料、ナパームや爆弾といった類の匂いは無かった。遠距離から狙撃されてもおかしくは無い開けた土地だが、そんな気配も無い。間違いなく安全だ。
「心配しなくても、誰も狙ってませんよ」
小さなバイクを押して文月が出て来た。タイラーが後からガソリンの入った缶を抱えてついて来る。そのミニバイクには見覚えがあった。
「ホンダのCD50?」
「ええ、俺が学生の頃乗ってたものです。隊に居た頃も義兄さんが時々乗ってたらしいので、ちゃんと動くと思いますよ」
そう言ってタイラーの手からガソリン缶を取り、タンクのキャップを開けて注ぎ込み始めた。タイラーはそれを文月の肩越しに見ていた。コルトが問いかける。
「で、これにタイラーが?」
「ああ、そうだよ」
そう言って風防付きのジェットヘルメットを被る、彼の顔はずいぶんと嬉しそうだった。確かに街を出歩く訳にもいかない状況にあっては他にする事もそう無いのだから、いい暇つぶしが出来たというところか。
「さて、満タンですよ。早速どうぞ」
タイラーは優悠とその新しい玩具に跨った。そして一通り自分の乗っている乗り物を見て、ふと気付いて言った。
「ウィンカーのスイッチはどこだ?」
文月は一瞬何を聞かれたか分からなかった。コルトの方は、「やっぱりか」とため息を吐いている。スーパーカブは例外的にウィンカースイッチが右側に付いているが、殆どのオートバイは左側グリップに備える。タイラーは二輪ではカブにしか乗った事が、いや乗れたことが無い。
結局その後何度となくエンストを繰り返し、結局タイラーはそれを投げ出して文月とスーパーカブを買いに出かけた。しばらくしてから食事の片づけを終えたアニタが出て来たので、暇を持て余したコルトが半ば強引に彼女をその可哀そうなミニバイクに乗せた。
「私、自転車も乗れないんだけど」
彼女は不安そうにそう言ったが、コルトは「心配無い。自転車より楽だ」と言って操作方法を教えた。アニタの方は二時間足らずで運転の方法を覚えたので、コルトは嬉しがってインディアンを引っ張り出し、アニタを伴って街へ出かけて行った。運転免許も持たない少女を50ccのマシンに乗せ、750ccのスカウト101で引っ張り回すというのも暇の為せる業か。
タイラー達が帰って来たのとコルト達が帰って来たのはだいたい同じぐらいの時刻になり、その日はそれだけで一日潰れた。夜になってからは街で買って来たインスタントラーメンを食べ、文月は当然のように酔い潰れていた。
「困った人ね」
アニタはそう言って文月を介抱し、二人同じ部屋で寝ていた。タイラーとコルトはその後しばらく話して、だが何をするでもなく寝た。一昨日、昨日と同じような時間に。
この土地に来て、一日一日がとても速く感じられる。一週間経っているというのに、まるで三日しか経っていないような気がする。何か問題があった訳ではないし、むしろ良い方向に進んでいる。タイラーとアニタはまともに会話が出来るようになっているし、アニタは文月と夫婦のように仲良くしている。コルト自身も、この地に来てからというもの禁煙に成功していた。
これが平和というものなのか、それともただ安全なのか。いずれにせよ人間にとっては良い状況なのだという事は、コルトにも分かっていた。
ただ、胸の中が妙に乾くような感覚を覚えながらも。
その夜、皐月はテレビを見ながら編み物をして過ごしていた。その手の中では手編みマフラーが形作られている。所々編み間違えて少し曲がっていたが、それを贈る彼女の夫は全く気にしないだろうと思っていた。作り始めて一週間だが、まだ出来ていない。夫はその時から全く連絡も無く、家にも帰って来なかった。
航空自衛隊の戦闘機パイロットという国防に関わる職業に就いている以上、家族にも連絡出来ない事情が出て来るのは理解している。だから彼女は夫の居る基地に電話で問い合わせて、事情により回答不能と答えられても、少しも取り乱さずに、その代り彼が返って来た時に渡すプレゼントを作り始めた。
「待ってるわよ。蒼輔さん」
彼女はそう言って微笑むと、手元に置かれた写真を手に取った。不意にコーヒーを落として汚してしまい、蒼輔の顔が消えてしまったが、問題無い筈だった。蒼輔がもう一枚を大事に持っているのだから。
そのもう一枚さえ、日本海で突如として起こったドッグファイトによって永遠に失われてしまった事を、彼女は知らない。
「ガーゴイル2、何をしている。無誘導爆弾を投下しろ!」
コルトは自分のコールサインを呼ばれて、はっと我に返った。自機のF5A改良型、非正式名称F5Cは一発も被弾していないが、別方向から進撃した友軍は対空ミサイルと機銃掃射に晒され、回避の為に爆装を投棄していた。爆撃を行えるのはコルト一人だった。だが、出来ない。
「民間人が居る!作戦内容と違うじゃないか!作戦中止して帰頭すべきです」
レシーバーに向かって吠えるが、無線の向こう側からは怒りに満ちた声が返って来るばかりだ。
「何言ってるんだ!早く黙らせないとガーゴイル4がやられるぞ!奴は片肺飛行中だ」
「情けない事言ってるな!これは戦争なんだぞ!」
確かに友軍機のうち一機が片方のエンジンから煙を吐いている。そして、もう少しすればヘリ部隊が到着する事になる。この敵陣地を制圧する為だ。だが民間人がそこに居る。銃を持った人間だけではなく、10歳にもなっていないような子供や、赤ん坊を背負った母親までもだ。だがその近くに戦闘車両や高射砲、火薬庫も見える。撃たなければ友軍だけではなく、自分も危ない。
「クソッ!爆撃行程に入る。援護頼むぞ!」
コルトは中高度で戦開し、拠点に向かって水平に飛行した。コルトの決断を待っていた他の機も数機が被弾し、片肺になりながらも援護の為に散開する。
コールサイン・ガーゴイル2のF5Cはほぼマニュアル通りに飛び、コルトはタイミングを合わせて爆弾を投下しようとした。だが、その時だった。
下に居た敵の兵士が、友軍の機銃掃射で真っ二つにされた。そこに先ほどの赤ん坊を抱えた母親が走り寄り、下半身の無い兵士の体を抱いていた。一瞬赤ん坊と目が合った。ギャアギャアと泣いていた。あの兵士は父親だったのだろうか?
「ガーゴイル2!何してるんだ、コルト!」
友軍の声を聞いて、我に返った。その時にはもう遅く、投下のタイミングを逃してしまっていた。
「馬鹿野郎!何してるんだこのボケ!」
無線から何人分もの言葉が聞こえる。ヘリコプター部隊はこの時間では間近に迫っている筈だ。隊長機からの通信が聞こえた。
「もういい、コルト。爆装を投棄しろ。作戦失敗を連絡し、総員基地に帰頭しよう。片肺の連中は今すぐ離脱しろ」
コルトは情けないとも思いながら、爆弾を投棄しようとした。だが、その時になってミサイルアラートが鳴り響いた。地上の対空ミサイルだろうか?
急旋回し、どうにか回避する。下を見ると、何とさっきの母親が怒り狂った目で対空砲座についていた。赤ん坊も同じようにこちらを睨んで来ている。気を抜いた瞬間に、弾がコックピットすれすれを飛び、キャノピーにひびが入った。途端、コルトの中で何かが弾けた。どす黒い感情が思考を支配し、ただ一つの怒りに似た感情が彼の全てを支配した。
「殺してやる。殺してやる。殺してやる!」
自分を狙った敵がとにかく許せなかった。男だろうと女だろうと関係無い。子供も子持ちの母親も同じだ。俺に武器を向ける奴はみんな敵だ。俺を殺そうとする奴はみんな殺してやる!
「落ち着けガーゴイル2。損傷は軽微だ、コルト」
隊長機からの無線が聞こえたが、無視した。ガーゴイル2は機首を上に向け、一気に上昇した。そして十分な高度に達すると今度は機首を下に向け、急降下を始めた。さっきの対空陣地に向けて一気に突っ込む。母親が慌てて機銃の方向を変えようとしていたが、間に合わない。F5Cの翼下パイロンから爆弾が切り離され、彼女らの真上に落ちた。間もなく爆発し、そこにあったものを粉々に吹き飛ばす。
操縦桿を引き、機首を上げながら機銃掃射を行った。木の建物に何発もの銃弾が突き刺り、砕いて行く。人の体が真っ赤に爆ぜるのも見えた。その眼で見たのは初めてだった。思い出しても寒気がするが、その時コルトは罪悪感も恐怖も感じてなどいなかった。
これまで生きていて、最高の気分だった。
「うわあァ、ワァ!違う、違うんだ!俺は……!」
コルトは化け物でも見たような声を出して飛び起きた。化け物を見たならまだ良かったかもしれない。彼が見たのはまぎれも無い、過去の自分の姿だったのだから。
動悸と荒い呼吸を抑えられないまま、周りを見回す。自分の荷物と、枕、隣の布団にはタイラーがまるで何事も無かったかのようにぐっすり眠っている。いや、この男は自分よりも恐ろしい夢を見ているのかもしれないが。
隣の部屋からは何やら荒々しい息遣いと、喘ぎ声のようなものが聞こえる。文月とアニタである事は間違いないが、まったく呑気なものだ。コルトはやっと気を落ち付けて再び横になった。そして溜息の後、誰に向かってでもなく呟く。
「戦争してる……ってのに」
そう言った後、彼が抱えていたもやもやが少し晴れた気がした。嘘だろ?俺は戦争がしたいってのか?
朝日はやけにゆっくりと上がって来た。結局眠れなかったコルトには、そこに希望も救いも見出す事が出来ず、ただサングラスを持って来なかった事を悔やんでいた。この地で見る朝日はやけに眩しく、そしてなんだか薄情だ。
タイラーが走れなくなったのは、その日からだった。いつものようにジョギングを開始したが、普段の半分ほどのペースも出ず、1kmも走らないうちに顔を真っ青にして倒れてしまったのだ。コルトは彼を背負ってどうにか文月家まで帰り着いたが、その後再開する事は無かった。一人ではどうにも走り切れそうになかったのだ。
文月はアニタを伴ってだらしない顔で玄関まで出て来たが、タイラーの様子を見るなり正気に戻って、慌てて家の中に引きずり込んだ。アニタに布団を敷かせ、コルトと二人でそこに寝かせる。
「タイラー!聞こえますか?」
「あぁ……」
タイラーは文月の問いかけに力無く応えた。
「目も見えてる。意識もあるからな……ありがとう、もう動ける」
布団を押しのけ、上半身を起こす。顔色は普段通りに戻っていた。言葉にも力が戻っている。
「食事の用意を頼むよ。コルトと二人にして欲しい」
「分かりました。アニタ、行こう」
文月はすぐにアニタと一緒に台所へ消えた。コルトとタイラーだけが部屋に残される。先ほどまでは晴れていたのに、しとしとと雨が降り始めている。
「コルト、俺はまだ戦える」
「分かってるよ、タイラー。何を言い出すかと思えば……」
「だが、そう長くは持たない気がするんだ。ベトナムで妙な菌をもらったのか、或いは原子爆弾の放射能のせいかは分からないが、明らかに俺の体は弱ってる。早くしないと駄目になってしまう……その前に作戦を開始しないと」
「だが、何も連絡が無いんだ。行動しようにも情報・移動手段両方が無い」
そう言ったコルトの襟を掴み、タイラーは目を見開いて怒鳴った。
「お前も分かってるんだろ?コルト!どうせ死ぬなら戦って死にたいんだよ、俺は。いや、お前もそうなんだろ?確かに小型核弾頭が炸裂しないならいいんだ。だが、本当に作戦は止まってるのか?奴らの執念はお前にも分かってる筈だ。あの最後に残った男、奴は絶対にやりとげるだろうよ。こんなところでへばってる場合じゃない!今すぐにでもあの不気味な島で何が起ころうとしてるのか探らないと、手おくれになっちまう!」
掴んだ襟を揺さぶるタイラーを、コルトは肩を叩いて落ち付けようとした。
「大丈夫だ、お前も俺もまだ死にはしないさ。奴らも襲ってくる様子は無いし……」
「もういい。文月!」
コルトの襟を離し、いつになく感情的になってタイラーが大声で呼んだ。雨はざぁざぁと降り始める。アニタが慌てて外に出した洗濯物を取り込みに出た。文月は呼ばれた途端に出て来た。すぐそこで聞いていたのだろう。
「どうしましたか」
そう聞く文月の顔にはいつもの人間味が感じられなかった。冷たい、まるで無機質な表情。いつか戦場に居た頃、極秘任務を持ってやって来た情報部の青年将校を思い出させる。
「ここで怠けてる場合じゃない。どうして武器も移動手段も来ないんだ。アル達が一緒に来るんじゃなかったのか?それに、俺達はあの島について殆ど何も知らない。どうしてここまで情報が足りないんだ?」
文月の顔を睨みつける。コルトはタイラーの隣で不安を感じていた。確かに何かがおかしい。どうして目の前のこの男はこんなに落ち付いていられる?狙われた男二人をかくまっているというのに。それに、どうしてタイラーやコルトが街に出る事を許してきたのか?
文月はしばらくの沈黙の後、口を開いた。
「姉の夫、俺の義兄が竹島付近で消息不明になったそうです。航空自衛隊に所属する川上蒼輔二尉……姉の所に行ってみましょう。話が聞けるかもしれません」
コルトはそれを聞いてすぐに疑問に思った。MSFを名乗る彼らの雇い主がこの男に伝えた情報はそれだけなのか?それに、その姉の所に行っても話が聞けるとは思えない。かの島は領土問題で大いに揉めている、デリケートな地点。だが、タイラーは目を閉じて言った。
「連れて行け」