第十二話
 部屋に通されるなり、コルトはべったりと寝ころんだ。
「あー、尻が痛い。こんなに道が悪いとは思わなかった」
「空飛ぶ乗り物よりは快適だったろ?」
 タイラーは荷物を部屋の隅に押しやって、そこに座った。
「次元が違うぜ……」
 コルトは腰を撫でながらやっと起き上がった。
「ところでタイラー、このカーペットはどういう物なんだ?すごく気持ちが良い」
「そういえば懐かしいな。これはタタミ(畳)といって……」
 タイラーが話し始めた時、フヅキが戸を開けて入って来た。
「二人ともお腹が空いたでしょう。食事の用意が出来ましたが、すぐにお持ちしましょうか?」
「ああ、有難い。ペコペコだよ」
 タイラーはそう言って腹をさすって見せた。
「分かりました、すぐに……」
「そうだ、構わなければ一緒に食べよう。なぁ、タイラー」
 コルトがにっこり笑って言った。タイラーもそれに同意する。
「まぁ、行軍中は嫌でも一緒に食う事になるが……まあいいだろうよ」
「ではご一緒させて頂きます」
 フヅキはそう言って部屋から出て行った。戸が閉まったのを確認してコルトが口を開く。
「いい青年だが……ここまでだと怪しいと思わないか?」
「まあ、日本人というのは外面だけは良いものだよ。そこが良いとも言えれば悪いとも言える訳で……。そういえば畳の話の途中だったな。タタミというのは……」
 その時、玄関の戸が勢い良く開いた。と同時に、女性の声が聞こえた。
「ただいまー!」
「ああ、姉さん。今ちょうど……」
 もうひとつ聞こえる声はフヅキの声だ。
「ん、あの声……」
 コルトはその声に聞き覚えがあった。そういえば名刺を預かっていた筈だが、どこで無くしてしまったんだろうか。
 と、戸を開けて今度は二人入って来た。先に入って来たフヅキが食事を置いて、後に入った女性を紹介した。
「俺の姉です。川上皐月(カワカミ・サツキ)」
「始めまして……ああ、コルトさんとは初めてではありませんね」
「よろしく。コルトと知り合いな……コルト?」
 タイラーの呼びかけにも応えず、コルトはぼうっとサツキを見ていた。
「ええ、米国で危ない所を助けて頂きまして」
「ほう……しかしあなたの身のこなしを見るに、コルトの助けは要らなかったんじゃないかと思いますがね」
「まぁ!」
 サツキは口を塞いで驚いた様子を見せた。
「ああ、姉さん。俺は二人と一緒に食べる。姉さんは外で済ませて来たって言ってたろ。ちょっとお客さんに例のお酒を」
「ああ、今すぐに」
 サツキはそう言って部屋から出て行った。
「少しお待ち下さいね。姉がお酒を持って来ます。土佐鶴というもので……あー、コルト?」
「ああ、こんな所で再会するとは、これも運命というものだろうか」
 半分呆けたままのコルトが言った。
「あー、たぶんそれは違うぞ」
 タイラーは呆れたような声で行った。
「フヅキが養子でない限り、それは無いな。どうだろう?フヅキ」
「ええ、俺はここの家で生まれた。残念ですが、姉は数か月前に結婚したところです」
 フヅキは頭を掻きながら言った。タイラーは腕を組んで首を縦に振った。
「そういう事だから、まぁ……おい、コルト。しっかりしろ」
「フン!だね。俺だってそんなコミックみたいな展開には期待してなかったさ!」
 コルトは口を尖らせて言った。
「そんな事より食事だ。腹が減ったよ」
「あ、もうすぐにでも来ますよ」

 暗い中でその基地の名前を記した文字はよく見えなかったが、その傍にある小ぶりな小屋には電気がついていた。その中でソファーに座り、その30歳前の男は日記をつけていた。時折ある女性の写真を恋しそうに見つめながら……。
「川上二尉どの〜!」
 一等空尉の階級章をつけた男がおどけたように男の肩をバシバシ叩いた。
「ああっ!山本一尉!びっくりしましたよ」
「川上ィ〜。今夜も奥さんの顔を見ながら寝ずの番か?いやぁ羨ましいこったねぇ、俺なんか今年でもう35歳だよ。全く、お姫様の横を素通りして来ちまったのか、お姫様が俺を避けてるのか……いやぁ、お前は実に幸せな奴だぜ?蒼輔(ソウスケ)ちゃんよぉ」
「すみません、ありがとうございます」
 ソウスケは照れながら言った。
「あぁりがとうだぁ〜!?こぉいつぅ〜!」
 ヤマモトがゲラゲラ笑ってソウスケの脇をくすごうろうと手を出した時だった。突然その建物、基地全体に甲高い警報音が鳴った。
「まったく、今度は何だ」
 ヤマモトがそう言ったのは彼らが戦闘機のコックピットに収まり、宙に浮いてからだった。
 警報音が鳴り、管理係の声が聞こえた途端に彼らは短距離走選手のように走り出し、ドアを音を立てて叩き開けてはくぐり抜け、十数秒と掛からずにハンガーにたどり着いていた。整備員も同じく大急ぎで発進準備を進めていた。彼らがいつも訓練で行い、ほぼ完全に身体に叩き込んだ手順である。そう、スクランブルだ。
「グリズリー1、グリズリー2、発進準備完了。グリズリー1から緊急発進!そうだ、川上と山本の機だ!急げ!」
 彼らの、日本航空自衛隊向けのファントムU、F4EJは数分と掛からずに飛び立った。グリズリー1のコールサインを持つソウスケとヤマモトが乗る機の斜め後ろに、もう一機のファントムU、グリズリー2がついた。
「こちら管制、私語はよせグリズリー1。これはいつもの訓練ではない」
「は〜あ。いつもの訓練ではないのは分かってる。いつもの領空侵犯だろ?やんなっちゃうよ、連中この国をナメてやがるぜ」
 ヤマモトは不満そうに言った。
「腹立たしいですね。でも敵をナメないで下さいよ」
 カワカミは操縦艦を握ったまま言った。
「畜生、分かってるよ!」
 ヤマモトは後席でレーダーを操作した。カワカミは前席で目の前に広がる空と海を睨みつけている。まだ何も見えない。
「こちら管制、どうだ?見えるか?」
「こちらグリズリー2、駄目だ」
「こちらグリズリー1、レーダーにも映ってないぞ。本当にこの位置なのか?」
「レーダー網はそこで国籍不明機を捉えている。在日米軍も同じ位置に捉えたそうだ」
「ここは竹島に近い。韓国軍じゃないのか?奴らナメて……」
 ヤマモトがそう言った時だった。
「何だ、アラート……アラート!?畜生、どこに……」
 グリズリー2からの無線が響き、すぐにロストした。カワカミは慌てて後ろを確認した。
「ヤマモト一尉!」
「何だあの攻撃……ガンでもミサイルでもないぞ。あれは……」
 後ろを見ていたヤマモトが話している途中で、管制から通信が入った。
「グリズリー2墜落!グリズリー2墜落!グリズリー1は即座に帰頭せよ!」
 カワカミは耳を疑った。その目で見ていたヤマモトでさえ、現実感を欠いている様子だ。何者かがグリズリー2を攻撃した。そして墜落。この日本航空自衛隊の機が墜落?
「クソッ!」
 カワカミはとりあえず逃げる事にした。
「一尉、後方を警戒してて下さい!増槽投下!尻尾巻いて逃げますよ!」
「了解!」
 グリズリー1はドロップタンクを捨て、急旋回して機を基地の方角に向けた。そして最大出力で加速していく。国籍不明機の攻撃、グリズリー2墜落。どういう事だ?ここは日本領空の筈だ。しかもレーダーに映っていない。
「クソッ!カワカミ!ついて来てるぞ!」
 ヤマモトの声に、カワカミも後方を確認した。確かにまだ付いて来ている。だが、その機体経常は彼が想定したものではなかった。尾翼付きデルタ翼のMiG21でも、軽戦闘機のF5でもない。見た事の無い機体だった。彼はUFOという言葉を連想してしまった。未確認飛行物体、そう、間違ってはいない。
「管制!反撃の許可を……出さなくても反撃しますよ!」
 カワカミは操縦桿を引き、そのままループした。敵は油断していたのか、グリズリー1に後ろを許した。
「グリズリー1、FOX2!」
 セレクターを切り替え、ボタンを押す。同時に主翼下パイロンから二発のミサイルが発射され、不明機に襲いかかった。
「待て!まずは威嚇射撃から……」
 管制からの無線が聞こえていたが、二人とも無視した。僚機がやられているのだ。それどころではない。
「当たれ……当たれよ!」
 グリズリー1からのミサイルは蛇行した軌跡を描いて不明機に接近し……たどり着く前に爆発した。
「嘘だろ……」
 カワカミはまるで夢でも見ているかのような気分になった。突然敵機から光が発され、それが蛇行してミサイルに触れた。そして爆発。
「カワカミ!どうなったんだ!一体何がどう……」
 ヤマモトはそう言っている途中、自分の頭の上をその飛行機が自機後方に向けて飛んで行くのを見た。いや、違う。さっきまで直進していた機体がいきなり後ろに飛んで行く筈は無い。こちらが追い越したのだ。
「オーバーシュート!敵に後ろを取られた!」
 カワカミは機体を90度ロールさせ、そこから機首を上げて急旋回を行った。そこから出力を上げ、加速する。彼らの体に体重の何倍もの圧力が掛かったが、気絶している場合ではない。
「まだ駄目だ!追って来てるぞ!」
 ヤマモトが後ろを見て吠えた。
「何なんだ!いつもの領空侵犯機とは違うぞ!」
 その声をかき消すように警告音が鳴った。カワカミもヤマモトも、まるで胃に鉛が流し込まれるかのような感覚を覚えた。
「ええいッ!キツいのいきますよ!」
 グリズリー1は180度近くロールして背面を上に向け、機首を上げた。一気に急降下し、雲を突き抜け、どんどん地面に近づいた。高度計の数字が減って行く。彼らの体により強力な圧力が掛かった。
 だが、警報音は依然鳴り響いている。と、その音がより甲高いものとなった。
「ミサイル!」
 ヤマモトが体をシートに押さえつけられながらも警告した。
「大丈夫!いける!」
 グリズリー1はそのまま急降下を続け、ミサイルはその後ろを追いかけ続けた。その距離が縮まって行くと共に、警報音のテンポも上がって行く。そして目の前には海面。カワカミが何を考えているのか、だいたい察しがついた。
「任せるぞ……!」
 ヤマモトの声にカワカミは一言も返さず急降下を続け、そして激突を回避出来なくなる高度まであと少しというところで操縦桿を引いた。
 グリズリー1は急上昇したが、慣性のついたミサイルは方向転換出来ず、そのまま海面に突っ込んだ。ミサイルアラートは止み、ロックオンを知らせる警報も解除されていた。カワサキは脳を掴まれたような感覚を堪えて頭を回し、辺りを見渡した。苦痛の色を含んだ声で後席に向かって聞く。
「一尉……見えますか?」
「いや……、はぁ、見えないね……」
 ヤマモトの声も同じく苦痛を含んでいた。しかし、その中には安堵も感じられた。有視界内に敵は居ない。レーダーも勿論確認したが、敵影は無い。尤も、最初から敵はレーダーに映っていなかったのだが。
「管制、そちらからはどうだ」
 ヤマモトがレシーバーに向かって聞く。
「こちらのレーダーにも異常は無し。グリズリー1、任務完了とする。帰頭せよ」
「了解。グリズリー1、帰頭します」
 カワカミはレシーバーに向かってそう告げ、旋回して基地に向いた。側面には小さな島が見える。
「あれ……竹島だな」
 ヤマモトは静かに呟いた。と、彼の見つめる先で何かが光ったような気がした。
「グリズリー1!」
 管制から無線が入った。時を同じくしてミサイルアラートが狭いコックピット内に鳴り響く。
「レーダーがロストしていた敵を捉えた!お前達の真上に……」
「奴がこっちを睨んでる!ミサイル来るぞ!」
 ヤマモトが叫んだ。すぐ上を見上げたカワカミの目にもその機影が見えた。先ほど見た時には分からなかったが、翼が前方に向いている。前進翼と呼ばれる形状だが、まだ実用化も、ろくな実験機も出来ていない筈だ。と、直後にミサイルが発射された。自機まで殆ど距離が無い。どちらかというと鈍重であるファントムUでは、そこから回避する事は不可能だった。
「レバー引け!ベイルアウト!」
 彼らの体をすさまじい衝撃が襲った。


「本当は未成年なので飲んじゃいけないんですけどねェ」
 タイラー達を迎えた時とは打って変わってご機嫌な調子で、フヅキは足を投げ出して杯を仰いだ。
「まァ、隊ではみィんなこれがいちばんの楽しみでね?いや俺もあそこに居なきゃ覚えなかった事ですよ、えェ」
 そう言ってまた仰いで、空になった杯に再び酒を注ぐ。彼の背後には茶色の瓶が既に日本空になって転がっている。全てフヅキが飲み干したものだった。
「お二人さん、一杯も飲んでないじゃァないですか?飲みましょうよォ」
「あー、いや……俺は最近肝臓に一発喰らってな……」
 タイラーは脇腹をさすって言った。その表情にはアルコールの匂いに対する不快感が表れている。幼い頃から日本酒の匂いというのは好きになれなかったのだ。といっても、彼が10歳にもならない頃の古い記憶ではあるが。
「えーっと、そう、俺は航空兵でスクランブル準備の時に飲まない習慣をつけててな」
 コルトもタイラーと同じように、目の前に座る若き泥酔者を困ったような顔で見て言った。前に一度タイラーがこう教えた事がある。
「多くの日本人は基本的には律儀で思慮深く、慎重だが、酒を飲んで酔っ払うとどうしようも無くなる。普段のストレスやなんかをため込んでいやがるのか知らないが、まぁどんな民族にせよ気遣いを忘れた奴らはまったくのロクデナシだ」
 その通りだと思った。
「ところでェ……そのさくせ……地帯に関してなんですがァ〜……」
 そこまで言って、フヅキは急に真っ青になった。そして大慌てで口を塞ぎ、戸を開けて部屋を出、トイレのある方向に走って行った。タイラーとコルトはその彼を、くたびれた目で見送った。はぁ、とため息をついてコルトが言う。
「これが日本人か……」
 タイラーはしばらく言葉を探して、結局見つからずに口を開いた。
「日本人もたくさん居る。まぁこれは……一例だ」
 若者が羽目を外すのは何も日本だけに限った事ではなく、酒というのも世界各国で出回っているものだ。ただ日本という国は人間関係やストレス解消を、やや酒類に依存し過ぎている。酒をより多く飲める事が称賛の対象となったり、部下が上司の酒を断る事が許されざる冒涜とされたり……フヅキが居たという自衛隊などはその最たる場だったようだが。
 未成年者の飲酒も、もはや常態化しているようだが、それもまた無理も無い事である。酒を飲む事が一人前の大人の証明とされる風潮がある以上、そこに憧れる一部の少年少女が酒類を摂取する事は避けられないだろう。
「まぁ……」
 タイラーは考えた後に口を開いた。
「自分の生きたいように、信ずるがままに生きるだけだ。どの国に居ても、どんな文化の中で生きるとしても。だがそうするだけの力が無ければ、周りに合わせて流されるがままになるのも仕方が無い。自分の足が立つ事を拒んだ時、心の底から奮い立たせて立ち上がる力が無ければ、そこに転がってる酒瓶に頼って立つのも仕方が無いだろうよ」
 コルトは急にそう言われて、理解するのに少し時間がかかった。どうにか飲み込んで、彼はタイラーに訊ねた。
「なら、お前は何のために立ち上がる。何に頼れば重きを背負って立ち上がれるんだ?」
 いくらか遠回りな言い方になったが、その内容はコルトがずっと前から聞いておきたかった事だった。つまり、「何のために戦っているのか?」だ。
「そうだな……」
 タイラーは前髪を掻き上げ、窓の外を眺めた。曇っているのか、星も見えなければ地面に人工の明かりも見えず、ただ屋根の端がこの部屋からの光を反射しているだけで、それ以外は真っ暗だ。
「俺には人殺ししか無かった。あまりに多くの血を浴び、死線を掻い潜る事でのみ得られる快楽に身を委ねて来た。他にする事も出来る事も無いから、兵隊を続けてる。10歳の子供の頃から今まで、18年か……。ずいぶん長くやってきた。俺の心身には戦場の香りがこびり付いてる」
 そう言って、タイラーはフッと笑った。
「でも、今は違う。どうにかしてアニタの安全を確保したい」
「愛……か」
 コルトが腕を組んで言う。
「そうである気もする。だが、そうでない気もするんだ。男女の愛とは何か違う気がする。義務感やなんかともまた違うと思うんだが……」
 タイラーはそう言うと黙りこんで、苦笑いしながら首を振った。
「そろそろ寝よう。明日も特に早起きする理由は無いが、もうだいぶ遅い時刻だ。フヅキの奴、隣のアニタを寝かせてる部屋に間違えて押し入らなきゃいいんだがな」
 タイラーはそうは言ったものの、何だかそうなるのも悪くは無い気がした。フヅキが酔っ払っていなければ、むしろそうなる事を心から望んだだろう。そう、アニタと同じような年の頃の、彼女と共に生きていける青年が、彼女に救いを与える事を。


「ああ……だいぶ良くなった」
 フヅキは口を拭きながらトイレを後にした。受け取った資料には二人とも飲酒せずという記述は無かった為、だいぶ多めに用意してあったというのに、彼は舞い上がって勝手に一人で飲み続け、そしてあるだけ全部飲み干してしまったのだ。無理も無い。
 意識も朦朧とし、頭痛もして来たのでもう寝てしまおうと、廊下の壁にもたれ掛かりながら部屋に向かった。自分の家なのだから、部屋を間違える筈は無い。今まで居た筈の部屋の戸を開ける。
「おや……?」
 部屋はもう既に真っ暗で、自分が散らかした筈の食器類も無くなっている。タイラー達が気を利かせて片付けてくれたのだろうか?そのタイラー達はどこかへ……いや、一つ布団が敷かれ、その中で寝ている。暗がりで顔は分からなかったが。
「男二人、同じ布団で寝るとは……しかも一人しか寝てないように見える。連携戦闘のプロはやはり格が違う……よし、ここは俺も」
 フヅキは男同士が一つの布団で寝るというのに抵抗を感じながらも、思い切ってその布団に潜り込んだ。中は暖かく、ほんのさっき敷かれたとは思えない。と、腕に柔らかいものが触れた。隣に何かが居るようだ。あまりに心地よかったので、フヅキはそれに抱きついた。暖かく、柔らかい。まるで女性の体のようだったが……まぁ、そんな筈は無いか。
「ちょっと……何!触らないでよ!あ……いや、だからちょっとってば!」
 女の声が聞こえる気がするが、きっと飲み過ぎただけだろう。
「バカ!やめて!起きなさいよ!」
 頬を叩かれるような感覚を覚えたが、これも飲み過ぎのせいだろうか?頬が痛むのは初めてだ。まぁいい、この暖かい何かを抱いて早く寝てしまおう。
 酒臭い息を首元に浴びながらもアニタは自分に抱きついた男を引き離そうと抵抗し続けたが、服を脱がされる訳でもないと気付き、フヅキの頬を叩くのをやめた。そのフヅキはというと目を覚ます事も無く、もうスゥスゥと子供のような寝息を立てている。
 結局アニタは観念し、抱かれたまま放っておく事にした。
「堅い身体……でもあったかい」
 アニタはその手をフヅキの背中に回してみた。その筋肉質の体に触れ、故郷で受けた屈辱が蘇ったが、それでもフヅキから離れたいとは思わなかった。玩具のように弄ばれた時とは違い、優しい暖かさを胸に感じる。それがフヅキの体温なのか、それとも自分の中で生まれた物なのかは分からなかったが、心地よいという事だけは間違い無かった。
 翌朝タイラー達は、半分冗談で言った事が本当になり、自分達が寝た散らかった部屋の隣の部屋でフヅキとアニタが、服を着たままとはいえきつく抱き合って心地よさそうに眠っているのを目の当たりにし、いい歳をしていながら中学生のように顔を赤らめる事になった。